河西昌枝(中村昌枝)死去 80歳 バレーボール主将「東洋の魔女」
中村昌枝(旧姓 河西昌枝)さん10月3日に亡くなったと報じられました。
3日の深夜、 病名は脳出血だった。80歳だったという。
2012年に28年ぶり メダルを取得できたと喜んでいた中村昌枝(旧姓 河西昌枝)さんだった。
2020年の東京五輪もとても楽しみにしていたそうだ。2020年に東京に招致することに決定したのを見届けることはできた。
河西昌枝(中村昌枝)のプロフィール
(旧姓 かさい まさえ) 1933年7月14日生まれ
山梨県出身 身長 : 174cm
山梨県立巨摩高等学校卒業
1952年 日紡(日本紡績株式会社)入社
実業団バレーボールに入団
1960年 世界選手権 2位
1962年 モスクワ世界選手権 優勝
1964年 東京五輪 (コーチ兼主将)優勝
1965年 日紡を退社
1965年 2歳年上の自衛官と結婚
2003年 日本バレーボール協会理事・女子強化副委員長就任
2004年 アテネ五輪 全日本女子チーム団長を務めた
2008年 バレーボール殿堂入り
2013年 10月13日 死去
日紡の鬼コーチといわれた大松博文監督の指導で、1960年 世界選手権 2位となった。 (1978年 心筋梗塞で死去)
1962年には、優勝を勝ち取ることができた。
このとき、やりきった感があったのか、「バレーボール選手を辞めて、結婚しようかな」とも語っている。
1962年の世界選手権がモスクワで開催された。現地の新聞に「東洋の魔女」というニックネームをつけられたという。
モスクワが当時は、一番強いとされていたが、日本が勝ったため、「魔女」と名付けられたそうです。
当時の日本のバレーボールが、今のバレーボールの世界の基礎を築いたと言われていました。
日本に負けた当時のモスクワは、それ以来、日本に対抗するべく厳しい猛練習があったと、後から話していました。
1964年の東京五輪が開催される前に、父親が亡くなってしまった。
「東洋の魔女」と恐れられていた中村昌枝(旧姓 河西昌枝)さんは、ストレート勝ちで優勝することができたが、父親にはみせることはできなかった。
1965年、日紡を退社し、佐藤栄作元総理大臣の紹介で、2歳年上の自衛官と結婚した。
その後、3人の子供にも恵まれる しあわせに家族と過ごしていたようですね
2度目の東京五輪の開催を応援しており、2013年に2020年の東京五輪招致を決まったのをみることができた。
「8年後、元気でいられること」としていたが、2013年、亡くなられました。
広告
スポンサーリンク